おぎひろしのバイク遍歴② ホンダレーシングスピリッツ NS250F

ひろしと渚にまつわるエトセトラ

 

ひろしです。

 

中国の春節もいよいよ終盤戦、残すところ4日間となりました。そろそろ生活のリズムを立て直さないと出勤後に困りそうです。広東省近辺の気温は27-17度と連日暑いため、またまた蚊が発生してきて日夜戦っております。ただ寒暖の差が激しいので風邪には注意しないとですね。日本の皆様もお気を付けくださいませ。

 

さて大学2年生になりたての頃、そろそろRZ50のパワーにも不満を感じ始め、一緒に走りに行ってくれる先輩達も高速を使えないのでやや気を遣うところ。。どうしたもんかと思っていたら新聞屋の配達用バイクのメンテナンスを一手に引き受けてくれていたバイク屋さんの息子さんがとある事情でバイクを手放すとの話がオイルを補充に行った際にバイク屋さんのオヤジさんから出ました。

 

ああ、そう言えばひろし君250か400のバイク探してたよね?息子のバイクどうだい?まだ全然走ってない新品同様だし、何かあったらうちで面倒みるから安心だよ?とのありがたい仰せ。

それがこちらNS250F!

ひろしが当時乗っていたのはこの白色

 

 

当時、大流行していたレーサーレプリカの中で珍しくカウルを装備していない渋いヤツ。2つ返事で買わせて頂く事にしました。ひろしカウル付きはあんまし好きじゃなかったんだよね。。派手なのと熱が籠るのとハンドル切っても目の前で真っ直ぐ向いてるカウルがどーしても違和感がありましてねえ。。

エンジンはV型水冷2気筒L字型置き、レーシングマシンのRS250Rと設計コンポーネントを共有し、出力は45ps/3.6㎏と当時の自主規制値MAX、車重は161㎏と軽量で7000回転から2ストならではの猛烈な加速を発揮し更に9000回転でもう一度加速する。。当時2段ロケット加速と称されたこのバイク、ほんと楽しさが半端なかったです。ただ当時言われたフロント16インチのコーナリングの癖はちょっと注意を要する所では有りました。ちなみに加速時は2ストなんで猛烈な白煙とオイルが飛び散ります。。後ろの車の皆様その節はどうもすみませんでした。。

NS250にはFとRが有ってRはアルミフレームでカウル付き、Fはスチールフレームでカウル無しと11万円安の廉価版の扱いでは有りましたがひろしはこちらの方が好み。やっぱバイクはノンカウルが良いね。風になったわたす。。

 

こちらはNS250R。アルミフレームのカウル付き。

Honda NS250R.jpg
By Rikita投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

 

このバイクは想い出がいっぱい。先輩達と良く箱根の椿ラインに出かけては走り回ってました。大学の2限目の授業に出るつもりがいつの間にやら鎌倉から一人で箱根の椿ラインに出かけて流して帰ってきたり、釣り竿を背負って西湖、精進湖、津久井湖、北浦、印旛沼、手賀沼に出かけたり、琵琶湖まで釣りに行ったり。以下代表的な思い出を述べてみましょう。

 

「ひろし、日本四分の一周の旅」

一緒の専売所で働いていた友人と横浜⇒群馬⇒長野⇒福井⇒京都⇒奈良⇒天理⇒南紀白浜⇒潮岬⇒三重⇒名古屋⇒浜松⇒横浜と回ったのも楽しかった。敦賀では地下デパーで大学の先輩にバッタリ会って食事と宿を恵んでもらい、霧ケ峰では霧に巻かれ、奈良公園では鹿に突つかれ、白浜の海辺の露天風呂崎の湯で全裸で立っていたら向こうのホテルからぴーに感動され、浜松ではウナギを食い倒し、静岡ではバイパスの脇で寝ていたのを行き倒れと勘違いされたのも良い思い出。(*’▽’)

 

「ひろし飛んで飛んで飛んで廻って廻って廻って廻る」

北海道も2度行きました。初回は陸路で先輩と2台で行ったんだけど、出発の深夜までバイトで集金してたんで、横浜から寝ないで出発して朝の8時頃に仙台で居眠り運転して、前を走っていた先輩のMVX250Fに追突してそのまま道路の積雪した場合の目印の鉄柱に突っ込み自分は寝たまま宙を舞って道路沿いの生垣に頭から突っ込みました。(これは後ろからごつんとぶつけられた先輩が振り向いた時のシーンです。後で聞きました。先輩的にはひろしの実家に事故で死んじゃったって電話しなきゃ!とひろしが宙に舞ってるのを眺めながら瞬間的に思ったそうです。薄情ですな。。ちなみに先輩はコケなかった。。これに懲りて2年目は有明からフェリーで行きました。。)

ひろしが居眠りから目が覚めたのは生垣の下の柔らかい地面に頭から埋まってヘルメットのバイザーの半分から下が水槽に詰めた土のように見えた所からです。多分、眠っていて体に力が入って無かったのが幸いしたのか、傷ひとつ有りませんでした。

しかしバイクは鉄柱にぶつかって止まったため、フロントフォークから完全に大破して走行不能になってました。突っ込んだ生垣の家の方が大変親切で、家に入れて寝かせてくれた上、軽トラにバイクを積んで近所のホンダウィング店まで運んでくれました。幸いパーツセンターが近くに有ったため、部品一式がすぐ届き、夕方には出発できることになりました。

この間、こちらの家の方はご飯を食べさせてくれて、もう少し寝て行きなさいと親切にして下さいました。ツーリングが終わったのちずっとお礼の手紙とお歳暮をお送りさせて頂いておりましたが海外に出た時に送れなくなってしまい、今でも申し訳なさと感謝の気持ちで一杯です。

 

「ひろし北海道を爆走す」

目的地の北海道では、釧路で教師をやっていた大学の先輩の下宿に転がり込み、そこをベースに北海道を一周しました。開陽台で夕張メロンの傷物を3箱地元の方に頂きメロンパーティを開き、富良野ではまずい札幌ラーメンを食べ、網走駅前では花咲ガニを3杯恵んで貰い、知床では石を跳ね上げてプラグが吹っ飛び2気筒が単気筒になり、函館で「はるばる来たぜ函館」を熱唱しウニイクラ丼を頬張り、小樽ではマロンチックになり、宗谷岬では北方領土返還を叫び、霧の摩周湖では快晴になり、狩勝峠からは眼下の十勝平野の雄大さに打たれ、直後に追い越し禁止で捕まり涙する。。ああ、北海道最高!( ;∀;) あ、ちなみに札幌には行きましたけどススキノには行ってないんで。。サーセン!(*’▽’)

 

「ひろし箱根椿ラインに散る。。」

もう一個、自爆をやりました。いつもの様に授業をさぼって椿ラインに一人で出かけた時の事ですが、下りを攻めている時にオーバースピードで右コーナーにアプローチしてしまい、バイクを倒しきれず、立ったまま左の山の壁に突っ込みました。この時はさすがにもう死んだなと思ったのですが壁にぶつかる前に脇の側溝に落ち、側溝の幅がちょうどバイクのステップより少し狭かったため、ステップが支点となってジェットコースターのように側溝を走ってなんとか止まりました。ただ側溝の脇はすぐ壁で左腕の皮膚は肘から手首方向にかなり擦れて持って行かれ、ヘルメットも半分以上擦れて下地が露出してました。この時皮膚が削れたのは今でも薄っすらと跡が残っています。2回ともただ単に運が良かっただけで、ちょっとタイミングがずれていればまあ、今頃ブログを書いている事も無かったでしょう。皆様も安全運転でお願いします。

この後はさすがに反省して峠を攻めるのは止めてしまい、ツーリングと通学、横浜での街乗りが主になりました。まだレインボーブリッジが完成する前の大黒ふ頭は走りのスポットでもあり夜にここに行って夜景を眺めながら煙草を吹かすのはマイブームのひとつ。瑞穂ふ頭のポーラスターとスターダストの2軒のバーも良くあぶない刑事のロケとかやってました。良く見に行ったな。。学生時代はちょうどサバゲーが流行しており、昔からエアガンが好きだったのでチームに所属して色々な年代や職業の人と友達になれました。中区の長者町にあったニューオデオンの模型屋さんに入り浸ってました。上の階には日本エアライフル競技団体の射場も有って本格的な競技エアライフルも撃てましたね。時々通ってました。今も有るのかな??

色々と想い出深いNS250Fでは有りましたが、サバゲ―の友達が乗っていたバイクが気になり、ちょうどその友達も2ストのバイクに乗りたがっていたので交換という形でお別れとなりました。

 

2019年2月8日